ボブ・ディラン氏のノーベル文学賞受賞に見る音楽と歌詞の関係

2016年10月13日に発表されたノーベル文学賞受賞者が、ミュージシャンのボブ・ディランだと発表された事により賛否含め多くの報道がなされていますが、日本では概ね好意的な報道が多いが、欧米では賛否両意見が飛び交っているようですね。

選考基準に関してはノーベル財団が決める事なので私にとってはどうでも良いですし、この選考基準に文句を言っている人の気もよく分からないが、この論争の中でかなり目を引く報道がされていましたので、そちらをご紹介したいと思います。

既に報道されているのでご存ぞの方も多いかと思いますが、ボブ・ディランは受賞の知らせがあった後も一切のコメントを発表しておらず、またノーベル賞事務局がボブ・ディランとコンタクトをとれていないという事らしい。一部報道では「ボブ・ディランは辞退するのではないか」とまで言われています。

ではボブ・ディランがノーベル文学賞を辞退するかもしれないという根拠はどこからきているのか?

私が読んだ記事の中で最も印象深く、最もあり得ると思った説が「音楽よりも詞ばかりが深読みされる事態にディランが辟易している」というものです。その証拠に、過去にリリースした曲があまりにも歌詞に注目されてしまうため、彼はある時期からCDに歌詞カードを付けなくなったらしい。

元々ボブ・ディランのファンでもありませんし、今後もCDなどを購入するつもりもない私ですが、これには非常に感動しました。実際にインタビューを見たわけでも読んだわけでもないので、これが正確な情報なのかさえ分かりませんが、もしこれが本当なのであれば彼は”音楽というものの音”を愛していて、その音に対して耳を傾けてほしいのではないかと思います。

音楽と歌詞の関係性

当たり前の話ですが、音楽とは音を楽しむものであり、歌詞が無くても音楽は成立します。逆に歌詞だけでは音楽とはなりません。音・演奏があってこその音楽であり、その音楽に感情やメッセージを盛り込むための手段が歌詞なのだと思います。

私にとっては歌詞というのは一つの楽器に過ぎないと思っています。リズムを生み出すドラムや、音階を生み出すギターやピアノと同じように、感情・情景を生み出す楽器が歌詞なのだと。

日本では多くの場合、歌詞に注目が集まり、歌詞に共感することによってその音楽を好きになったという話を聞きます。特に恋愛がらみの曲ではそういった事も多いでしょう。

しかし、それって本当の意味でその音楽を好きになったと言えるのでしょうか。むしろ、歌詞を好きになったという方が近いのではないでしょうか。ギターを弾く方がその曲のギターが好きだと言っているようなものだと思っています。勿論、そこに歌詞とマッチした音があることは間違いありませんが、音よりも詞重視の捉え方をしていると言えます。

私は18歳から洋楽にのめり込み、今でも洋楽を好んで聴きます。洋楽好きにとってはあるあるなのですが、友達に洋楽が好きだと話すと、よくこういう事を言われたのを覚えています。

歌詞が分からない曲を聴いて何が良いの?カッコつけてるだけでしょ?

洋楽が好きな方であれば、少なからず1度は言われたことがある腹の立つ言葉ではないでしょうか。感情の起伏が激しかった20代前半の頃は、この言葉を1周り以上離れた年上の方に飲みの席で言われ、口論というか音楽論のぶつけ合いになったのを覚えています。

「歌詞を見なくてもその音楽が表現している感情が伝わる事は多いですよ。むしろ、歌詞が無い方が自分がその音楽から受け取る情景を自分に自由に重ねれるので、歌詞に縛られるより自由に音楽を楽しむことが出来るんじゃないですか」

この言葉で相手は折れてくれましたが、歌詞を無視するようはこの発言に賛成する方が多くないという事は重々承知してるつもりです。実際に歌詞を見ると、私が感じた感情と異なる感情を表現していた音楽もありました。しかし、それはレアケースに過ぎず、やはり感情の表現というのは音だけでも十分に伝わると思っています。

この時から、私は音楽の楽しみ方は大きく分けると2つあると理解するようになりました。

1つは、大多数がそうであるように、歌詞に込められたメッセージを音に乗せて楽しむ方法と、もう1つは音楽によって表現されている感情の起伏を音として楽しむ方法。別にどちらが正しいわけでもありませんし、どちらがカッコいいというわけでもありません。音楽の楽しみ方は人それぞれです。

この分け方で考えた時、私は後者です。歌詞が分からなくても素敵な音楽に出会うと涙が流れます。むしろ、私の人生の中で感動した音楽のほとんどが英語の歌詞であり、私にとっては全く意味の分からないものでしたが、そこに表現されている音によって感動するのです。

では、冒頭でご紹介した記事の抜粋「音楽よりも詞ばかりが深読みされる事態にディランが辟易している」と、ボブ・ディランが歌詞カードを付けなくなったという事実から推測するに、彼はどちらの属性なのか。恐らく彼は後者なのではないかと思っています。

特に彼の場合は、一般人の私と違って偉大なミュージシャンなので、音に対する思い入れの方が強いのでしょう。だからこそ、歌詞ばかりに注目が集まる状況に嫌気がさし、歌詞カードを入れず、リスナーに音に集中してほしかったのではないかと思います。

また、冒頭で触れた現状「日本では概ね好意的な報道が多いが、欧米では賛否両意見が飛び交っている」という事に関しては、日本人の多くは音楽に対し歌詞を重要視する民族性であるが、欧米では歌詞重視派と音重視派の二極分化しているんだろうなという事が見えてきて面白いなと思いました。

歌詞の力

ここまでに、歌詞による音楽の表現を否定しているかのような言葉を使っていますが、私自身歌詞をないがしろにしているわけではありません。

特にボブ・ディランさんのように強いメッセージが込められている音楽は好きです。

洋楽を聞き始めたころに「Bad Relogion」という、日本で言うメロコアバンドにのめりこんでいた時期がありました。彼らの音楽もまたメッセージ性の強い音楽で、特に戦争の虚しさを歌う曲や権力者に対する皮肉を込めた曲が多く、とても印象的でした。

彼らの曲の中でも「Sorrow」という曲は非常に歌詞と音楽がマッチした曲で、歌詞の内容を確認せずともその悲しい感情が伝わってきました。そして歌詞の意味を確認したときに、より一層感動したのを覚えています。

必ずしも歌詞を重要視しない私ですが、彼らとの出会いにより、歌詞の意味が伝わらずとも音楽として感動することが出来るのだと知りました。しかしそれ以上に、音楽は歌詞に込められたメッセージをその歌詞以上に伝えることが出来るのだと感動しました。

他にも、パンクバンドの中でもレジェンド化しているNOFXの「Don’t Call Me White」もかなり衝撃を受けました。白人が黒人を蔑むときに使う「black」ではなく、逆の意味を持つ「white」を完全否定するような歌詞。「”俺を白人と呼ぶな!”白人なんて言葉があるから差別が生まれるんだ」という曲ですね。

日本以外の出来事に無関心だった私も、歌詞の意味が分からない洋楽を聞くことで、感動した音楽の歌詞に興味を持つようになり、彼らが歌っている意味を調べることで、世界では様々なことが起こっているんだと知りました。

そういった意味では、意味が分かるからという理由で日本語歌詞の音楽だけに耳を傾けるのは勿体ないと思っています。意味が分からなくても感動できる音楽はあるし、そこから歌詞に興味を持ち、より一層の感動を得る機会が必ずあるはずです。

最後に

現在は、メロディックパンク、ハードパンク、ポップパンク、スカ、レゲエ、R&Bや欧米のポップミュージック、ハードロック、フォークソングまで幅広く音楽を聴くようになりましたが、やはり日本の音楽よりも欧米の音楽のメロディーや演奏の方が私は性に合っているようです。

だからと言って全く日本の音楽を聴かないわけではありません。「ONE OK ROCK」を初めて聞いた時は心底感動したのを覚えています。また昔は「アニオタきめぇ」と思っていた私ですが、現在はアニソンの女王と言われている「LiSA」が大好きです。歌詞の理解はしていませんが、純粋に女性ボーカリストとしてカッコいいし、彼女の音楽そのものがカッコいい!

話がそれたので強引に話を戻しますが、今回ボブ・ディランさんがノーベル文学賞の受賞にノーリアクションである理由。もしその真実が”俺は詩人ではなく音楽家だ”という自負からくるものなのであれば、マジでカッコいいと思います。

あの年齢にもなって、自分の信念を貫ける芯の強さと、社会に媚びない姿勢。

今後真実が明らかになるのかは不明ですが、彼の発言には注目したいですね。